2018/05/25
花の生涯
大正天皇が崩御され、元号が昭和に改まった翌年の十一月、残り少なくなった暦が北からの風にあおられる三十日、百合子は山田の家の五人きょうだいの二女として、兄、姉、弟、妹にはさまれながら今の下北町で産声を上げ育った。
名前の通り明るい日の光を全身に浴び、天真爛漫な娘に育った。百合子は幼い頃に母親を亡くした。そのため小さい頃から弟や妹たちの面倒をよくみる孝行娘であった。当時は「下北の百合ちゃん」と言えばちょっとしたお転婆娘として人の口に乗っていたと言う。
小学校を卒業すると家の手伝いをすることが仕事となった。きょうだいの世話だけにとどまらず、友だちの面倒まで見ていたと言うからそのお世話好きは筋金入りと言ってよいだろう。とにかく家族のためにすべての楽しみを投げ打って身を捧げた若葉の頃だった。
その間には先の大戦が始まりやがて敗戦と言う形で終わった。すべてを失ったがきょうだい皆すくすくと育った。百合子もそろそろ自分の人生の行く先を見定める年齢にさしかかった。
戦後復興の足は速かった。時代の潮の流れが大きく変わり、百合子の目に映る風景も毎日のように新しく様変わりした。そのような時故森一男との出会いの時が待っていた。昭和二十六年と言うから進駐軍も引き揚げ、湯川と言う学者がノーベル賞に輝き、朝鮮戦争の特需で日本が再びの輝きを見せ始めた年の正月二十一日ふたりは籍を入れた。この年の正月はさぞかしにぎわったことだろう。
ここでふたりのなれ初めについて触れなければならない。当時一男は米を卸す仕事に就いていたが、たまたま訪れた納品先に百合子がいた。容姿もさることながらてきぱきと働く姿が一男の目に止まった。そして時を置かず良縁が結ばれたのだ。
やがて東京五輪を経てわが国はいよいよ高度成長期に入った。時流を読むことに長けていた一男は建設業に目を付け、三十代で建設会社を立ち上げ建売住宅販売の第一人者として一時代を築いた。それを陰で支え続けたのが百合子だった。
活力に満ちた精鋭だった一男は仕事だけでなく遊びの方も豪快だった。百合子も何度が自分の苦労に涙した。そんなとき百合子の支えとなったのが四人の子どもたちの寝顔だった。百合子はかつて自分のきょうだいにそうしたと同じように子どもたちにも無償の愛を注いだ。
母親の愛を食みながら育った子どもたちは皆心やさしい人に育った。百合子は貧しい家庭で育ったので、子どもたちにはできる限りの施しをした。学業や習い事、ピアノ、習字などなど与えられるものはすべて与えた。それは幼い日々の自分の心の穴を埋める作業でもあった。厳しい夫に仕えながら百合子はここでも自分のことは投げやって子どもたちに尽くしたのであった。
やがて子どもたちは育ち、それぞれ世に出て行った。しかしその後も子どもたちの家庭や事業を支え、白い大黒柱ぶりを見せた。子どもたちは異口同音にその当時のことに感謝の言葉を寄せている。百合子がいなかったら今の一族の栄と輝きはなかったのかもしれない。
百合子は白くなった髪をなでつけながら目をつぶり歩んできた道のりを振り返った。「距離は長かったが時は短かった」そんな思いがした。そして目を開けると四人の孫と二人のひ孫に囲まれる自適の余生が映り広がっていた。そうこれからは自分に褒美を与える番だった。
百合子は洋ランの栽培を始めた。洋室を作り苗から花を咲かせる腕前は玄人も唸らせた。そして旅行も楽しんだ。夫や子どもの家族たちと世界中に足を伸ばし、国内の温泉めぐりもした。このまま時が止まってほしい…何度そう思ったことか。また凝り性なので珈琲を煎れるのにもこだわりを見せ、お気に入りの豆を買い、それを挽いてから湯を注いだ。芳醇な香りとコクのある酸味に舌鼓を打った。立ち上る湯気の向こうに幸せの景色が揺れて見えた。
そんな百合子に惨い現実が待っていた。十五年ほど前から身体に癌を抱えるようになってしまったのだ。それまでの華やかな景色が色を失い鉛色に観えた。しかし幼い頃から培われた辛抱強さで持病とも正面から闘ってきた。もちろん家族の力強い支えもあった。百合子が耐える中、五年前には夫の一男が旅立ち、二年前には長男の一郎を失った。百合子にとって自分の死は暗い闇夜の一人旅でなく、夫や息子たちと再会するための新しい旅立ちに変わった。
平成三十年卯月の朝、風雪を耐え忍び、まわりを照らしながら咲き続けた一輪の花が静かに散った。
その日は季節外れの冷たい雨と風が横殴りに頬を打ち、宮崎の街が悲しみの涙に濡れているような風情だった。
故 森百合子 九十歳の大往生であった。
2018/05/23
ウイスキーの会
宮崎ロータリークラブ・ウイスキーの会がベルカフェで開かれました
毎回バルボンさんが秘蔵のウイスキーを出してくれますが、今回の目玉はコチラ↓↓↓
非売品だそうで1杯あたりに換算すると…ちょっちゅびっくりのお値段でしたよ 😯
↓↓ほかにもスコッチの優等生たちを味わいました
前列左から…
スマイリーさん ゴロー×さん バルボンさん シャトー相談役 ガクチョウ殿 オールド賀先生 スリムリバー先生
後列左から…
鼻高々くん タロウちゃん ジャイアン シャトー夜の部さん 雑毛ローニ先生 鼻高々夫人 まさこさま おかず氏 アンディー
2018/05/23
記者会見
大人たちの思惑や魂胆といった汚物が藻のように覆ったどぶにはまってしまった二人の青年。
昨日の某大アメフト選手の記者会見の一部始終を見て、その潔さと真摯な態度に感動を覚え、もともとゆるい私の涙腺は梅雨前線となり雨が降り続いた。
もし昨日の会見内容が真実ならば、こんなまっとうな考えを持った若者をあそこまで追い込んだ当局の罪は万死に値すると思う。
対応が組織の体をなしていないし、なにより自らは教育機関と言う自覚があるのかさえ疑われてくる。
私の目がこの問題の前で凍りついた理由は二つある。
まずは同世代の息子を持ち、しかもその子が大学に進学しスポーツで青春を燃焼させようと意気込んでいる親としての立場だ。
妻と語った。
もし息子が被害者だったら私たちは息子にどう声をかけ、どう支えていっただろうかと。
そして相手に対してどのような行動に出ただろうかと…
さらに、息子が加害者だったらどうだったろう。
親としてどうやって罪を一緒に背負っていけるだろうか。
更に息子にも被害者だったら、あるいは加害者だったら、そしてチームメイトだったらと問いかけた。
橙色の灯りもとに三つの影が揺れわが家の夜は更けていった。
次に私の心をかき乱してくれたのは組織の長としての立場だった。
今回件の大学側が取った対応。
ここまで断言できるのは一番大切な学生を守る精神が完全に欠落していることだ。
若者を育て、世の中の戦力にするためにあるのが教育機関だと思っていたが、この大学はどうやら違っているようだ。
大きな組織の湯に浸かっているとのぼせてしまうようだ。
翻って自分の会社を見たとき同じようなことをしてはいないか。
私たちが一番大切にするべきはご遺族である。
ご遺族のお悲しみを癒すためにあるのが葬儀社だ。
トップの顔色をうかがって、自らの地位を高めるために会社に来ているのではない。
そんなのは仕事ではない。
今日の朝礼は力が入ってしまった。
ふたりの若者を観て息子の将来を思い
当該校の対応を観て自分の会社の実態を見つめた。
汚いどぶの中でもがき続ける二人の若者を救う知恵者が出てくることを切に願うばかりだ。
早くこんな日が来てほしいものだ。
2018/05/22
スタッフ会議
飲み会3連戦の中日は宮崎ロータリークラブ次年度スタッフ会議inバッカーノ
7月から会長を務めるもんですから皆さんに支えられながら準備を進めています
前列の女子
バードちゃんとプールちゃん
後列左から…
オコゲくん きたじま☆さぼろうくん 加賀シャトーさん
おかず氏 スリムリバー先生 ピグモン
六本松カビゴン師匠 るるぶくん
↓最後は追悼秀樹ナイト♬
2018/05/21
総会の季節
このところ連日のように総会に出席しています
実に爽快な気分です(笑)
↓日向学院ではまだ次男が在校生なのに今年も「PTA顧問」と言うお役を戴きました
某大学某部のような事態が起きた時に出番なのでしょうか 😯
もっとも学院ではありえませんけどね
↓は評議員を務める共愛幼稚園の理事・評議員会です
右のお二人が新しい理事さん
左は私が幼稚園に入園した時の担任・木村先生です
今でも威厳があって先生の前では自然に背筋がピンとなります 😛
共愛幼稚園では学期の途中でも入園できますよ 💡
2018/05/21
JCグランドシニア会
JCの大大大先輩たちの集いにお呼ばれしました
わきあいあいとした大人の雰囲気のお食事会で楽しいひとときをご一緒させていただきました
私にもカラオケのご指名がかかりました
濃いーお顔ぶれでしょ
2018/05/21
宮崎ロータリークラブ
先週の例会もイカくんはおさぼり…
テーブルのおしぼりが寂しそうでした 🙁
つーことで反対隣のシャトー昼の部さんを撮影 💡
プログラムはビニールジュニアの卓話でしたよ