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社長のブログ

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2018/06/23

追悼文 「紫陽花に見送られ」

マキ子が生まれたのが大正十四年の春、庭の景色が梅から桜のつぼみに変わろうとする頃で、芸術や文化に繚乱の花を咲かせた大正時代の終わりのことであった。

 

ちなみに当時はまだ女性に参政権がなく、わが国の人口が六千万人、平均寿命が男四十二歳、女四十三歳という時代であった。

 

マキ子の父親行は腕のいい船大工で、鹿児島の川辺あたりでは、唐船を造らせたら右に出る者はいないと言われるほど名を馳せていたと言う。

 

マキ子には兄と姉がいたが、兄と父親の親行は戦火に散った。

 

幼児から娘へと成長する若葉の頃は、毎日のように聴こえてくる戦闘機の爆音と空襲警報が子守唄だった。

 

やがて日本は敗戦。国を挙げて復興への道のりを歩み始めたわけだが、マキ子にも明るい光が差してきた。

 

後に〇〇機械店の創業者となる吉田好一との出会いがそれであった。

 

ふたりは三人の男子を授かった。

 

実業家であった夫が仕事に専念できるようにと、マキ子は家庭を守った。

 

家計を支えるために和服の裁縫の内職もした。

 

子どもたちにもそれを手伝わせた。余裕はなかったが毎日が笑いと明日への希望に満ちあふれ、妻としての充実を感じる日々だった。

 

「どんなことをしてもこの子たちを立派に育ててみせる」…そう心の中でつぶやいていた。

 

やがて子どもたちも巣立ち、生活にゆとりが出てくると踊りやカラオケ、温泉めぐり、そしてデパートでの買い物を楽しんだ。

 

それは戦火に飲み込まれた自分の青春期の心の穴を埋めようとする作業にも思えた。

 

もう大正はおろか、昭和もずいぶん遠くになってしまった。

 

七人の孫を抱き上げ、五人のひ孫の顔を拝めたことがマキ子にとっての勲章だった。

 

もうやるべき務めはすべてやり遂げた…そんな感慨に浸った水無月十六日の早朝、九十三歳の人生の幕を降ろし、夫の待つお浄土への旅路についた。

 

病室の窓の外では雨を待つ紫陽花の花が肩を寄せ合い、ひとりの大正女の見事な旅立ちを見守っていた。

 

 

 

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