2018/05/06
わたしとミッチーの長い旅
県北で開かれたサッカー大会若鮎杯から戻った。
それはミッチーと共に行くサッカー遠征の終わりでもあった。
これからは5月末の高校総体に向けて学内の練習に徹するはずだ。
思えばわたしら父子のサッカーの旅は12年に及んだ。
その間ミッチーは6歳から17歳。わたしは46歳から57歳と年を重ねていた。
ミッチーのサッカーに寄り添っていた時期はわたしにとって、日本海にそそり立つ岩のように、これでもかこれでもかと試練の波を全身に浴びていた時代であった。
男40代半ばからの12年間と言うのは黒い嵐の海に灯火もなく船出していくようなものであろう。
45歳で急性心筋梗塞に倒れ生死の境をさまよった。
と同時に秋の落日のようにあっという間に経営も傾いた。
毎晩油のような寝汗をかき悪夢にもがき苦しみ、寝ているのか身悶えているのかわからない毎日だった。夜が来るのが怖かった。
当時は長男も中学から高校に上がるところで、野球やレスリングに打ち込んでくれていたのはいいものの、気持ちのいいほどの反抗期まっただ中だった。
当然会社もガタついていた。うちでも外でもすべての景色が色を失って見えた。
それから何度か桜を見るうちに私の健康が回復してきた。それと足並みをそろえて会社の経営も持ち直してきた。
商売人の家の中の風景は業績ひとつで色も形も変わってしまう。
冷蔵庫の中のように冷えていたわが家にも小さじ一杯ほどの笑いも聞こえ、手のひらほどのぬくもりも感じられるようになった。
そのような中、親の苦労を知ってか知らずか、子どもたちはすくすくと若葉が芽吹くように育ってくれた。
家のことは妻に任せられたのが私の幸運だった。
やがて健康も経営も以前を上回るようになったとき、長男は親元を巣立ち、神戸でのキャンパスライフを謳歌しやがて神戸のホテルでの職に就いた。
あとは京都にある同業社で後継ぎの修行を迎えるばかりになっていた。
そしてその間もミッチーは毎日毎日ボールを蹴り続け、雑草以外は姿を見せないグランドで砂まみれになってサッカーと闘ってきた。
県の代表に選ばれ顔が壊れるのかと思うほどの笑顔を見せたかと思うと、代表からはずされ人目をはばかりながらひと粒の涙を落とした小さな背中。
そんなミッチーを支えるためにわたしは遠征先の彼を追っていた…と言いたいところだが…。
しかしもう正直に言わねばならない。
わたしがミッチーの試合を訪れていたのは親心と言うより辛い現実からの逃避であったと。彼のプレーを見ている間は、苦しい今日と、耐えられない明日からを忘れることができた。
わたしは自分を保つためにミッチーのサッカーを利用していたのかもしれない。
ミッチーはサッカーに挑み、わたしはサッカーに逃げていた。
そんな合わせ絵のような父子だった。
喜びも、悲しみも、楽しみも、苦しみも実際はわたしの迷いの気持ちがピッチを走り回っていた。
そしてとうとうそんなわたしたちの最後の遠征を迎えたのだった。
行きの車の中ミッチーがぽつりとつぶやいた
「いよいよ最後の遠征やね」
一瞬わたしの邪心を見抜かれたのかと思いつばを飲んだ。
そして私は心の中でつぶやいた。
「これからはひとり旅だぞ」。
でもその言葉は後ろめたさで口から出すことはできなかった。
車はちょうど日向市の入り口に差し掛かり、高速道路を選んだ。
車窓の外には雄大な日向灘の大海原が広く遠くのびていた。
外洋に向かう船が一艘港を出て行った。
しかしその先はもう波立ってはいなかった。