2018/01/28
ある日の別れ
91歳の女性が旅立って行った。
目の不自由な家系で、家族で治療院を営んでいた。
最初の出会いは平成の初め、女性のご主人の葬儀を自宅で営んだことだった。
女性には弱視の長男がいて、両親の興した治療院を継いでいた。歳の頃なら30を過ぎたばかりだったろうか。
その長男は明るく人なつっこい性格で、葬儀後すぐに意気投合し、私が治療院に通ったり、二人で毎晩のようにニシタチに繰り出すようになった。
彼は目が不自由だったのにもかかわらずカラオケが得意で、点字の歌本などを持ち歩き器用に歌いこなしていた。夜を徹して一晩中飲み歩いた。
彼はどこで聞きつけたのか、当社の飲み会に何度も乱入してきて大いに盛り上げてくれたものだ。私も30代…まだまだやんちゃな時代だった。
それから少し逢わない時期があった。久しぶりに再会すると彼は奥さんと別れ、今回亡くなったお母さんと一粒種の息子さんと暮らすようになっていた。
さらに聞くと、以前、経営していた治療院も手放し、ホテルなどの出張専門のマッサージ師になっているとのこと。色々あったんだろう。
お互い歳を重ねたのか、再会しても昔のようにどっぷりとは付き合わなかった。
しばらくして今回亡くなったお母さまから連絡が入った。彼が不慮の死を遂げたとのことだった。訃報を耳にした時はちょうど当社の送別会を開いていた時で、最期の最期までうちの会社のメンバーと飲みたかったんだろうなあ…としみじみ思ったものだった。
そしてそれから2年後、お母さまにとっては最後の心のより所のはずだった一粒種の孫が若くして世を去った。葬儀を通して天を恨んだ。一人の人間に一体いくつの苦役を与えればよいのだろうか…この世には神も仏もいないのか…。辛い葬儀だった。
更に月日は流れた。私も日々、些事に振り回されて言い訳の多い生き方をしているが、時々あのお母さんは今どうしているのか…ふと考えることがあった。一緒に飲み明かしていた頃を知る社員に「お母さん最近どうしてるのかな?」と問いかけて数日後、お母さまの訃報が入った。
お元気にしておられたんだ…と言う喜びは一瞬にして消え、苦労に苦労を重ねた人生に手を合わせた。どんな表情をしておられるのか不安で、恐る恐るご遺体に近づくと、横たわる寝顔は実に安らかだった。
91年の風雪をひっそりと胸に納め、まるで眠っているようなお顔だった。それはこの世での務めをやり遂げた安堵の表情に伺えた。葬儀の際、司会マイクを持つ手の震えが止まらなかった。葬儀はご兄弟を中心にひっそりと、でも温かく営まれた。
これからは久しぶりにお浄土で家族一同が集い、積もる話に花を咲かせながらにぎやかにカラオケ大会が開かれることだろう。
最期、お母さまを乗せた霊柩車が角を曲がって観えなくなった。その車には故人や遺族と一緒に私の青春の日々も同乗していた。
お世話になりました。
合掌